◇マニアック且ついい加減な考察^^;◇

北陸の縄文晩期土器編年のはなし(貳)

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2.どこからが晩期か

 冒頭でも述べましたが、晩期というのは、亀ヶ岡文化が指標となります。したがって、土器を編年する場合は、亀ヶ岡式土器すなわち大洞編年と比較検討して詰めてゆくことになります。では、どこからを大洞B式とするのかというと、研究者間で意見の相違があるようです。
 ある立場では、優美で多彩な精製土器と、簡素な粗製土器が明確に区別して作られる状態を指標とします。別の立場では、器形や文様を吟味して、後期末の瘤付土器(新地式)の終末期に、入り組み状の文様が点対称に入り組む部分が三叉状になるところを指標とします。これはつまり、瘤付き土器の編年の第一人者である安孫子昭二が後期末と考える土器の一部を晩期初頭に位置づけることになるわけです。この場合、従来の大洞B式を大洞B2式、それより古いものを大洞B1式とします。この辺りのことは、鈴木克彦の批判があって、上述の後者の立場をとる磯崎正彦は、十腰内Y群の土器を晩期初頭に編年しました。鈴木の批判というのは、大洞B1式と瘤付第W様式は型式として弁別できるものなのかと、そう言う主旨のことです。したがって、この大洞B1式とB2式の編年を支持しない研究者もいるわけです。そもそも、大洞B1式というのは、山内清男が提唱したものだそうですが、その門下の磯崎はこの編年観を継承したとされます。安孫子も実は山内の門下で、大洞B1式という型式を基本的に認める立場ですが、安孫子自身のB1式というのもやはり判然としないようで、両者の編年観には齟齬があると、鈴木も指摘しているわけです。私?私はねぇ・・・、一応B1式は支持しない方の立場ですが、ちゃんと資料を検索していないので大きな声では言えません^^;
 そんなわけですが、趨勢は大洞B1式をもって晩期とする考え方が浸透するようです。岩瀬天神式を晩期初頭とする湊の提言も、この辺りの趨勢に乗っているものと思われます。北陸では、この提言は無批判に浸透するんですね。北陸で大洞B式前半とか後半とか言われるのは、おそらくB1式B2式をさすのだと思われます。なので、以下の記述では、大洞B1式という表現がでてきます。なので、気に入らない方は、以下の記述の大洞B2式を、大洞B式と読み替えてください(笑)

 話を北陸に移しましょう。
 北陸で晩期初頭とされた型式は八日市新保U式ですか、これは連結三叉文という文様が指標になっています。連結三叉文とは、マウスポインタをテキストの上に動かすと形が変わりますね、あれを横にしたものです(笑)三叉文を晩期初頭の指標とする考え方は、おそらく山内清男の影響が大きいはずですが、さっきの鈴木の批判というのは、その辺をつついているものです。この三叉文の初源的なものというのは、瘤付き土器の文様意匠の入り組む部分を三角形に彫り込むものとされています。八日市新保U式の連結三叉文でも、こういうタイプのものはあります。岩瀬天神式では、これに先行するといわれている類似の土器でも三叉文は三角形に彫り込むタイプです。そればかりか、富山で後期末と今でも考えられている土器ですら、三角形に彫り込む連結三叉文のような文様があります。西野が八日市新保U式を後期末とすべきだと考えたことは、大洞B1式をめぐる鈴木の指摘とよく似たニュアンスを持っています。

3.岩瀬天神式

 実は、私は、この岩瀬天神式というのに非常に拘っています。研究史の所で述べた酒井の編年観にも非常に不満を持っています。研究誌上で発表せずにこんな所でコソコソ書くのはある意味卑怯ですが(苦笑)

 岩瀬天神式の話に入る前に、その先行タイプのことを整理しましょう。
 まず一つは、魚津市石垣遺跡例で、もう一つは滑川市本江遺跡のK型と分類されたものです。石垣例は、瘤付き土器の影響が色濃く見える土器ですが、瘤付き土器そのものとはかなり違う形や装飾をしています。この土器は、口縁部に突起状の高まりが8つ付けられていて、手を組むように入り組んだ三叉文が見えます。本江K型というのは、在来の本江J型の土器がベースになっていますが、口縁部にやはり8つの三角形の山を付けます。この8つの山も、瘤付き土器にしばしばみられる突起に似ているといえば似ています。ほかにこのような特徴の共通点を見いだせそうなものは知りません。因みに、どちらにも三叉文はみられますが、どちらも三角形に彫り込むタイプです。この2例は、8単位という特殊な口縁部の割付によって、同じ時期であることが理解されます。因みに、在来の土器は伝統的に4単位です。

 さて、岩瀬天神式ですが、これは、口縁部は低い波状を成しますが、これは4単位に割り付けられます。山の形もなだらかな曲線で、これも在来の形を踏襲します。しかしながら、文様は独特で、これは石垣例に類似する文様と思われます。「思われます」というのは、破片資料ばかりで、全体の形が分かる資料がないためです。波状口縁にも特徴があって、山のてっぺんを内側に捻り込むように作ります。文様も、縄文の部分が浮き出すような恰好で、周りを磨き潰します。湊はこれを「半肉彫り」と表現しました。この半肉彫り手法は、本江J型でもしばしばみられる浮き出るような縄文帯に近しいもので、波状部の下の方に、J型でみられるような単位文様が見えるものもあるので、破片資料から得られる断片的な情報をつなぎ合わせると、石垣例の装飾を採り入れた本江J型、というようなものが想像されます。石垣例にみられたような入り組む三叉文は、岩瀬天神遺跡例では入り組み方が深くなり、玉を抱くような感じに見えます。境A遺跡にみられるのは、この入り組んだ部分を丸く線で引いてしまい、それを挟むように三叉文を彫り込むもので、酒井はこれをもって玉抱き三叉文とし、勝木原式の範疇で考えたのだと思われます。しかしながら、勝木原式の玉抱き三叉文は、円形の刺突を挟む玉抱き三叉文も特徴的なので、私は、境A遺跡例は岩瀬天神式を確実に含む考えています。
 円形の刺突というのは、後期末の段階でもしばしばみられますが、刺突の位置は不定というか、意匠の中心からはずれた位置に施される傾向があります。この特徴は、境A遺跡では岩瀬天神式にもみられます。最終的には三叉文に挟まれる位置に収斂しますが、この円形刺突というのはなかなかの曲者です。三叉文は、ほかにも楕円形や紡錘形の研磨部を包むようにも彫り込まれる「脚」の長いものです。

 図を載せずに書いていると、読む方も訳が分からないとは思いますが、ここまでの説明で、三叉文というのが多用されていることはよくお解りいただけると思います。しかも、その全ては三叉部を三角形に彫り込む点で共通しています。従って、編年的には大洞B1式に近しい年代が与えられます。あともう一つ、岩瀬天神式は、三叉文などの意匠を点対称に配置する傾向が非常に強く、北陸在来の線対称な意匠とは一線を画します。点対称な意匠も、やはり後期末の瘤付き土器や大洞B1式と共通する特徴なのです。[→次頁]


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